フィリピン ハゲ ちゃびん日記

フィリピーナと結婚し、1女を設けてしまい。フィリピンに滞在すること事を決意。既に、数年を経過。。。フィリピンから見た日本そして、日本人から見たフィリピン。何が正しく、何が間違いなのか、混沌する世界をさておき、ひたすらに、文化の違いに悪戦苦闘する日々を綴る

フィリピンの歴史から眺める日本2

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日本的な価値観とは?一体何なのだろう?

これが、自分の人生のテーマになるとは思ってはいなかったが、現在、海外に暮らし始めると、否応なく、日々問いが現れる。

 

これは、本当に難しい。本当に些細で、日々見逃してしまう小さな事象に物事の本質が隠れている。大きなマクロの事象が、小さなミクロの世界に現れる。

 

例えば、フィリピンでは誰も時間を守らない。時間を守るという事が、価値としてそれほど高くない、簡単に言えば、みんな遅れるから遅れても良いのだ。これを掘り下げると、どういう事か、、

日本でもフィリピンでも、価値として時間は大切であるが、何よりも日本人は自分が言った事に少なからず、責任を持とうとする価値もある。人は自己と他者があり、自分が遅れれば他者に迷惑がかかるという意識が働く、”恥”の概念である。

こういった道徳的概念が、国によっては宗教で治められたり、文化、風習等に伝統的に受け継がれている。こういう、不確かであるが、確かに感じる民族性が日本の場合、フィリピンよりも圧倒的に均質的で安定的である。

 

道徳的概念が均質的で安定的な理由としては、フィリピンの国内を見ると明らかにわかる。各諸島(エリア)において様々な言語が存在し、通じ合えない。だからこそ、公用語が英語になる。貧富の差が圧倒的に違うので、当然金額に対する価値観は様々になる。結果、彼らが共通の価値観として捉えるのは”教会”、宗教になる。

日本は、どうだろう。貧富の差が広がったとしても、路上に寝て、今日食べる物を探す日々の人はフィリピンに比べれば少数、金持ちの寡占化はフィリピン程ではなく、まだまだ貧富の差は少ない。言語は方言はあるが、日本国内においては日本語が公用語で通じるし、方言でも理解し合える。宗教に関しては、様々あるがそれによって他者を非難する事は、どこか道徳的には良くないと考えている。

 

こんな事は個人差もあるだろうと言われれば、その通りとしか言えない。しかし、やはり傾向としては上記の内容にそれ程、異論のある方は少ない一般論。一般感覚として至極普通と感じて頂けるのではないか?(普通というのが、また難しいが。)

 

また、難しいのは、この”日本人としての価値感”もきっと、時代や情勢によって変化していくのだろうという事も考えられる点である。日本人としての共通の価値観が確かにある、と断言しておきながら、それが時代や情勢によっても変化しうると論じるのだから、これはまるで雲を掴むような話になってしまう。

 

日本だけでなく、世界的にも右旋回をしている世界情勢は、明らかに価値観の変化を起こしている。これは、目に見えるような破壊的なテロリズムではないが、まるで侵食するように、感染するように、広がっていく。今の安倍政権も、世界的な流れの1ページという捉え方も出来るのではと、個人的には考えている。

 

グローバリゼーションとは何なのか?

輸送、交通の発達により、各国は時間的にも近くなった。物や人の移動は、より便利になったと同時にそれぞれの国の制度も合わせる必要が出てくる。情報はインターネットの普及で世界の情報が一瞬で駆け巡り、各個人が端末を持っている。受信のみならず、各個人が簡単に情報発信できる。

国家の壁は低くなり、多様な民族、人種が往来を繰り返す。

国家という枠組み自体が、必要な装置として機能するよりも、利権団体として側面が強くなっていく。なぜ、国家が必要になるのか?最終的にはここに行き着く。

 

 

勘違いしないで頂きたいのは、世紀末論のように悲観視している訳ではなく、時代の一つの転換点にいる面白さ、ある意味未来に対する期待もあり、むしろ楽観的です。 

その通過点として今があり、さらに今の転換点は非常に興味深いという事であり、私自身、人類はやはり進化していると考えているからです。

いずれにせよ、国家というものが巨大な暴力装置から、福祉国家、と求められる役割が変化し、また国家形態においても、社会主義体制より、資本主義体制の方が生産性が高く、結果的に残った。”役割と合理性”ここに新しい物差し(新たな価値観)が必要になっているのでは、というのが私の考え方である。つまり、国家を運営する上で、我々が認識するさらに奥側にもう一つの認識するべき価値観の物差しが必要になっている時代ではないかと考えている。

この変化が今の右旋回に起因するのではと考える。グローバルな動きの中で、合理性は一つの大きな物差しだった、公共よりも個人が注目された、一方で共同体や仲間意識は希薄化した。個人というものの拠り所、帰属欲求を満たす存在を探しているのではないか?人はそれが必要なのではないか。人はそれを国家や民族に、求めようとしているのではなかろうかという仮説である。

私が、フィリピンに住んでいても私は日本人である。但し、自分の娘に関して言えば、フィリピン人と答えるかもしれない。Identityである。自分達のIdentityを民衆が国家に求めたという事ではないのだろうか?共同体への帰属欲求を満たすものの、Identityは時には差別を誘引する。

森友学園の本質的な問題も、ここに至る。グローバリゼーションとは多様化である、多様化の中の規律である、この部分の規律が利権になる。政府はそれを戦前回帰運動に日本的価値を見出したのだ。トランプ大統領が大きな支持を受けたのも、差別的な発言を受け入れるアメリカ人は、自分達の帰属欲求に飢えていたのだ。

 

だらだらと考えてしまったが、まとめると、今起こっている世界的情勢の変化が、大きな価値観の変化を余儀なくしている、または価値観の変化が世界情勢に影響を与えている。いずれにせよ、この転換点に我々は、人としての価値感のあるべき姿、創造すべき姿、をまだ知らない。ここに今苦悶している人間の姿があるのではないか。

つまり、安易に昔話を持ち出し、”昔は良かった””昔の日本人は強かった”という郷愁に浸っても何も解決にならない、ましてや戦前回帰を謳い、そこに日本の未来を見るというのは愚かでしかない。我々は今、次世代の価値観を創造する事を迫られている。

フィリピンの歴史から眺める日本1

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フィリピンは敬虔な、カトリック信者が80%もいる、比較的原理的なキリスト教国家です。これは、スペインの植民地統治からの流れです。

でも、意外に知らない人が多いのは、スペイン占領前は元々はイスラム教徒が多く住む、イスラム共同体の要素が強いエリアでした。(マレーからの住民)

つまり、その頃よりモロ族のモロ・イスラム戦線は植民地支配と戦いを行っており、既に300年以上戦っているという単純計算が成り立つ。(1521年マゼラン上陸)

 

スペイン占領時代には、イスラム勢力がフィリピンエリアにおいて、大きな主要勢力であったにもかかわらず、現状はカトリック信者が80%を越す、敬虔なカトリック国となっている。

 

外圧からの文化や価値観を強要されることは、その後の未来に大きな影響を受ける。例えば、日本の行った韓国併合は、未だなお、日本、韓国に遺恨を残す形になっているし、韓国という国の設立意義にまで昇華してしまっている。

しかし、フィリピンにおいては、これだけの文化、価値観の強要、外国からの収奪があったにもかかわらず、外圧に習う形で現在ではカトリックが80%であり、アメリカ植民地支配の影響より、公用語は英語で、公的な文書は英文化されている。

これは、やはりスペイン統治前にはフィリピンの歴史と呼ばれる、一つの個体としての概念が弱く、フィリピンの歴史はスペイン統治より始まった為と考える。

 

つまり、元々、数々の王国(マギンダナオ王国やスールー王国、マニラ王国)が中世では都市国家のように、ある緩い共同体であったのが、スペイン占領によって一気に国家という形に改変された為、初めてフィリピン国という概念が創造されたのである。

 

ここに、日本との大きな違いを感じる。日本でも数多くの渡来人と呼ばれる人々が日本の文化に新たな、創造を加え発展してきたが、地域差はあっても何か共通の価値観で日本は括られている感じがする。つまり、強制的に外圧による変化を生じさせられた、というよりは自ら進んで、”外国の物”を積極的に取り組む姿勢が圧倒的に強く感じる。

日本が主体になり、外国文化を取り入れるには、主体となる日本に確かな共通の価値観が必要になるのである。それとは一体何なのか?

 

日本という価値観とは何なのだろう?

ここに、昨今の戦前回帰運動や、政治の右旋回の原因があるような気がしてならない、つまり日本人が忘れてしまった、”日本人としての価値観”を戦前の皇国史観に求めている気がするのだ。

本当はもっとずっと深い気がするのだが。

 

サラリーマンをやめる理由

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日本って凄いね。みんな時間を守るし、将来のため、少なからずも貯金するのは普通。それぞれ、個々の人たちがみんなしっかりしている。

 

だからこそ、外国人は日本人を信用する。

日本のパスポートの信頼性は世界一。

 

でも。。。

だからこそ、疲れちゃう。日本でサラリーマンしていた時は、「明日やろうは馬鹿野郎」「今、やらなければ、明日競合他社がやるだろう」「お客様を待たせるわけにいかない」「顧客の思いを汲み取れ」「感じろ、言われる前に動け」。。。

 

営業マンの啓蒙本を読みあさり、より効率的な時間の使い方を模索する。

みんな真面目です。だから、疲れちゃう。

 

私がサラリーマンを辞めたきっかけ。

 

ある先輩の一言、「結局、自分が居心地良いところが一番良いよ。」

この一言でした、フッと肩から力が抜け、「そうだよな」と腑に落ちた瞬間でした。結局は良くも悪くも、日本人は外からの目を意識する、それがサービス産業にとっては他国では類まれな高サービス社会を生んだ「お客様目線」や「顧客満足度調査」。

時間通りに動く交通機関も、顧客の痒い所に手が届くスペシャルサービスも、結局は日本人の勤勉さの土台無しには語れない。

 

それは全て、他人の目を意識する事で生まれる、日本独特の「村八分への恐怖」「普通ではなくなる事への恐怖」「長いものに巻かれる安心感」

だからこそ、みんな同じ物差しで測ろうとする、誰かと比べる。年齢別の平均年収を見て一喜一憂する。

みんながみんな、そんな感じだから、人によっては辛くなってしまう。疲れてしまう。たまたま、「今」の時代に合っている人には良いかもしれないが、当然100人いれば100通りの人生観、価値観があって良いと思う、だから、合ってなくても良いのである。

 

そんな時、私からのアドバイスは「道から外れてしまえばい良い」である。他人が何と言おうと、親や親戚が何と言おうと、自分の居心地の良い所へ逃げ込んでしまいなさい。苦しむ必要などないし、つらい事を続ける必要などない。

たった一度の人生なんだから、少しくらい努力を、というなら、私は「たった一度の人生なのだから、好きなように生きた方が良いよ」とアドバイスする。

 

私も同僚から言わせれば、逃げたのだろう。

しかし、何にも後悔はないし、今の方が良いと思っている。

ただ、勇気を持って好きな事をやり続ける事だ。注意点は他人に迷惑をかけない。

ただ、その一点である。

 

 

 

フィリピン料理

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(写真はフィリピン名物、豚の丸焼き「レチョン」)

正直言って、フィリピン料理は甘くて、塩っぱい。

美味しいフィリピン料理は無い事はないが、出会うのは非常に難しい。特に、日本人にとっては味が濃すぎると、個人的には思います。

 

しかしながら、ご飯を食べない訳にはいかないので、食べます。

いつも、日本食レストランに行けるほどリッチでもないので、会社の食堂で済ませる事がほとんど、私の会社は教育事業関係で宿泊施設も完備している専門学校としての機能もあります。その為、食堂も併設されております。

 

日本のお子様、やはり口に合わなかったようで、「不味くて、食べられなーい。」可哀想に。。。当社の食堂はお客様には無料での提供の為、決して美味ではないですが、まあ、まあ、それなりに食べられると、個人的に思っていましたが。。。すみません。

 

心配にもなったので、近くの日本レストランをご案内させて頂こうと、説明していると。「いくらぐらいですかね?」私は「一人1,000Phpくらいでしょうか。約2,500円程度ですね。」と返答。

 

「高いですね。もう少し安くて美味しいとこ知らないですかね?」

 

ここからは、愚痴になりますが。。。

フィリピンでは安くて美味しいものはありません、高くて美味しいものはありますが、安いものは全てマズイのです。確かに、日本は吉野家もラーメン屋も定食屋も立ち食いそば屋も、どれも安くて美味しく。フィリピンの高い日本食レストランよりも全てにおいて、クオリティーが高い。凄いことです。

こちらの日本食レストランは高級レストランの部類に入るので、どうしても若干高め。日本の定食屋みたいなのはありません。

 

その意味では日本は食文化世界一(私は日本人なので、かなり贔屓目ですが。)だと思います。しかし、日本の常識を諸外国に持ち込んで、ご立腹されても私は困ってしまいます。

 

「こんなもの、毎日、子供に食べさせるのですか?」

「栄養のバランスも考えられていると思えません。味は濃いし。。。」

確かに、栄養のバランスやカロリー計算などは、皆無。お子様方にとって、健康に良くないかもしれないです。それこそ、そのようなオーガニックレストランもあるのですが、それは高いし。。。私も返答に窮してしまいました。

 

そんな中、うちの「奥さん」と娘が食堂で、山盛りよそって、「むしゃむしゃ」娘は手づかみで「むしゃむしゃ」。「奥さん」が手づかみを叱っていますが、一向に辞めません。口の周りにフィリピン料理まみれにして、笑顔。

 

顧客様、そんな様子を見て笑ってしまいました。

「とりあえず、なるべく子供に食べるように促してみます。どうしても食べないようでしたら、日本食レストランにでも行ってみますわ。」

 

「ありがとう。」娘よ。お父さん助かりました。

日本は素晴らしい、でもそれだけでは伝わらない。

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海外に住む、あるある。

やたら、日本の事を考える。

 

日本に住んでいると、わからなかった事は山ほど見えてくる。日本の素晴らしさ、日本の文化の特殊性、日本人の面白さ。

 

「奥さん」は日本人を見かけると、いつも笑う。「あ、日本人だ。ふふふっ」

私には日本人も、中国人も、韓国人も、台湾人も、歩いているだけでは分からない。勿論、実際会話をしてみれば、認識できるが遥か50m先の黄色人をみつけて判別は難しい。

 

会議でCOO ( Chief Operation Officer :役職の偉い人)が私を見て笑う。「Huhuhu, Japanese」私の会社の日本人は私だけ。やたら、簡単にパンパン発言する中で、私一人リスクによる危険性を語っていた。

 

「奥さん」は歩き方で日本人とすぐ分かるそうです、ガニ股の人が多いらしい。

そうかな?。。。

娘が生まれた際も、まず足をチェックして必死に真っ直ぐに伸ばしていた、

「I worry about her to be same your legs...」

 

当社のCOOは、新規事業を計画する上で、リスク説明する日本人を滑稽に眺める。(すみません、そんなに慎重な性格でもないのですが、一応、日本では考えうる、ベネフィットと潜むリスクを説明するのがサラリーマンとしての必要事項と考えておりました。)

 

日本では”ズボラでマイペースなハゲ”な私が、海外に出ると、”神経質なガニ股”、になった。環境が違えば、キャラクターも変わってしまうのである。こちらじゃ、ハゲはあまり笑ってくれない。普通なのだそう。

 

英語が喋れれば、海外で働ける。これは間違えです。はっきり言えます。何人もこちらで起業を考えて、または海外進出を考えて、失敗した人を見てきた。また成功した人も知っている。

 

確実に言えること、それは人々とコミュニケーションが取れること。これは言葉の壁ではない、むしろ文化の壁といったほうが良いかもしれない。

例え、英語が流暢ではなくても、構わない。彼らと一緒に食事し、理解し、共に同じ目標を見据えられれば、ほぼ勝ちである。

いくら、流暢に言葉を使いこなしても、日本式を押し付け「こうあるべきだ。」と説いたところで、響かない。だって、生まれた環境も、考え方もまるで違うのだから。 

 

日本は素晴らしい、私もそう思う。私は朝、時間より少し早く事務所に入り、エアコンを付けて電気を付けて、ちょっと掃除をしたりもする。出社時間を過ぎて、20分〜30分スタッフが出社する「Good Morning」。

日本人程、質の高い労働者はないと思う。

一応、言っておけば、私がHead Officerである。

小島よしお風に言えば、「そんなの関係ねえ。」

 

日本との違いを知って、そして”私”が彼らに寄るのです。

ココロ

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Youtubeで国会を見る。今、私が密かにフィリピンで楽しみにしている趣味である。仕事をする”ふり”だけはサラリーマン時代より、体得してきた。

 

森友学園問題」のみならず、「加計学園問題」でも質問されている安倍総理大臣、ここに来て一気に疑惑が噴出した様子だ。

稲田防衛大臣に関しては、森友学園側の顧問弁護士をしていたとか、していないとか、偽証疑惑も浮上し、議会は紛糾。

さらに、スーダンからの自衛隊撤退をこのタイミングで政府は決めたようだ。これを、森友問題隠しと指摘する声もあるようだ。

 

以上が、私のネット情報駆使したフィリピンからの日本政情観察結果である。(すみません、所詮この程度です。)

 

外から見た日本の情勢。

私の主観満載で考えると、”政府はその国民の鏡”です。

”権力者”と言うと、物凄い強そうですが、”権利者”が必要以上の権利を求めるという事ではないでしょうか。「何とか会議」の方も言っていた、「日本人が忘れてしまった、”公共へ付する姿勢”を思い出せ。」のように、実際それを口にしている方々が、自分の権利を異常に拡大し使用する。自己矛盾。

右でも左でも、皆んな須らく、我々の美徳を無視してしまった、美徳と言うと堅苦しいですが、倫理、モラル。そして、ココロ。

 

政治家は恣意的に法律を解釈するべきではないし、経営者は利益追求も大切だが従業員の家族を背負う覚悟も必要だ、より大きな責任を伴う。人は機械ではないので時には労いの言葉もかけるべきだし、何より経営者が得た利益を共有する姿勢がなければ、人はついてこない。

いかに、自分がお客様でも感情むき出しにぶつけて、相手を困らす事は、正当な”権利”だとしてもみっともない。

電車が遅れたのを、運転手さんに詰め寄る。アルバイトを罵る。障害者を馬鹿にする。原発被害の被害者は、まだまだ以前の生活に戻れていないのに、子供同士で虐める。生活保護受給者を税金泥棒と呼ぶ。韓国の方、中国の方を国籍で非難する。

 

色々な事象に、色々な状況があるはずなのに、背景知らぬままカテゴライズして誹謗中傷を繰り返す。他人の感情は無視する。慮る事を忘れる人。思慮浅い人が増えたのかな?自分の事で頭いっぱいで他人はどうでも良いのかな?自分が儲かれば、得をすればそれで良いのかな?

 

「強きをくじき、弱気を助ける」日本のヒーローはこういう人間だった。

「起きて半畳、寝て一畳、天下を取っても二合半」天下の将軍も質素な生活。

「売り手よし、買い手よし、世間よし」

近江商人は売り手、買い手のみならず、商売が地域社会に貢献しなければならないとしていたようですね。

「奥さん」がケータイ売っちゃった2

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常に物事は良い事と悪い事は、両立してしまう。

これは、自分のちょっとした人生での教訓です。

 

ケータイ売っちゃった「奥さん」は今日も、シコシコ新しい携帯にアプリをダウンロードに忙しい様子。でも、何だか楽しそう。。

 

そんな景色を眺めていると、「まあ、いっか。。」となってしまう私がおります。

 

1歳にも間近になり、絶え間なく動き回る娘に、新しいケータイに触れるな!と叱りつけておりますが、そんなに厳しくしなくても良いだろう。。。元々、自分が売ったくせに。。。と思います。

 

私が娘スッと抱き、「奥さん」より離しても、娘はそんな厳しい「奥さん」が大好きで、怒られても怒られても、近寄っていきます。

 

ついに、「Saba oi, Bad man ka oi」(悪い子ね、うるさいわ!)「奥さん」怒ってしまったようです。ここは、父として仲裁に入るところだと判断して、

「Just she has curious for that, No need to up set too much.」奥さんに伝え、そっと娘を抱こうしたところ。。。

「No, If you spoil me, She cannot follow me!」(あなたが、私の言う事をおざなりにすれば、娘は私の言う事を守らないわ。)と怒られました。

 

私は、黙って娘をそこに置きました。きっと娘は訳もわからず、怒られているのだろうと想像しながらも、その後、とうとうと娘に教育的指導を行う「奥さん」を横目で見ながら、心の中で「ゴメン、娘よ。今はママの言う事を聞いたふりをしてください。」

 

ケータイを売った事件発覚より数日、それはそれで、生活に新たなトピックが生まれ、結果的に良かったのかな、と思う今日この頃です。