フィリピン ハゲ ちゃびん日記

フィリピーナと結婚し、1女を設けてしまい。フィリピンに滞在すること事を決意。既に、数年を経過。。。フィリピンから見た日本そして、日本人から見たフィリピン。何が正しく、何が間違いなのか、混沌する世界をさておき、ひたすらに、文化の違いに悪戦苦闘する日々を綴る

バニラエアと加計問題

 

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日本からのお客様から、日本の情勢を伺う事が多い私。後はインターネット。どうしても空気感みたいなものを感じたく、ついつい色々と聞いてしまう。

メディア媒体よりも、人と話す方が主観が入り正確ではないはず、と思っている方がいるかもしれませんが、当方からすると人から聞く話の方が空気感、実感がある。特に昨今「フェイクニュース」なる言葉も氾濫し、メディア自体の信頼性も瓦解してしまった。AIが人から仕事を奪う、という見出しに、日本の労働者人口の減少の問題が目前に迫る、という見出し。

バニラエアーで障害者の方が、車椅子での昇降を拒否され、自力であがるという記事を見ました。コメントを見ると、バニラエアーを非難する以外にも、事前に説明をしたバニラエアーに同情の声があがり、「これだから障害者ワガママだ、格安LCCに乗るな」「対応できる会社を選び、選択するべき」という意見もあった。

 

1、立ち位置を変えた論理的思考の欠如
人の視点は、100人いれば100通りの視点があって当然である。それは、お1人様に2個、目があり、合計200個、全く別の位置にある。2つとして同じ場所、時間に存在する事はない。至極当然であるが、まずこの事実を受け入れられない方々がいる。

その事実を受け入れられないとは、意見を言う人、社会を非難する人、を差しているのではありません。むしろ、それらの声に耳を傾け、論理的に会話する、問題点を論理的に整理するコミュニケーション方法の劣化を言っています。

営業職で働いた経験があれば、法人向け提案営業をやれば必然的に経験する事、それは”何が、双方の利益になり、不利益やリスクはどこにあるのか”という論点の整理と交渉です。論点の整理ができていなければ、交渉は難しく、特に交渉立会者が複数いる場合には論点の整理ができていなければ、まとまりません。

私は社会も同じ仕組みと捉えております。正当性を主張するのみであったり、権威性や規範、ルールを盾に頑なに認めない等は、ある意味、交渉術の部類で、本質的な論点を明確にする事を避ける為に使われる技術です。勿論、民間企業間であれば、不利な状況を覆す為、そのような技術を使い、何とかよりよい条件を獲得する努力は日常的に行われます。しかし、これが政治になってしまうと論点が見えないまま、ある方向へ誘導する技術であり、これは民主主義(選挙民が決定権者)でなくなってしまうのです。

 

2、現在の政治の劣化とは
まず、第一に我々が目を背けてならないのは、我々の政治への認識の低さが、現在の政治状況を映しているのであり、「参政権」のある国民全体の問題である事です。政治家を批判する事は、同時に我々自身への批判であり、むしろ「自己反省」をしているという側面(勿論、全てがと言うわけではないですが)もある事を認識しなければ、民主主義の本質から外れてしまいます。それが、我々が「参政」した結果なのです。

つまり、「政治の劣化」は、民主主義である以上、「国民の劣化」と同義語になる、むしろ民主主義である以上、ならざる得ない、と表現しましょう。

そして第2が、前述した私が考える「コミュニケーション能力の劣化」です。コミュニケーションとは何なのか?漠然とした抽象的な単語に「ボヤっと」してしまいますが、言い換えれば、上記に記述した「立ち位置を変えた論理的思考の欠如」です。もっと、分かり易く言えば、「相手の目に変え、そして自分の目との距離を把握し、”ギャップ”と論点はどこに、どの程度あるのか?」それを把握する能力です。

例えば、バニラエアーの件であれば、「あなたが障害者であれば、心身の障害を理由にLCC航空を利用できない」という事象にどう対応するべきか?という事で、障害者であるから他人に迷惑をかける、それなりの補助(人件費や設備費がかさむ)が必要になる事は会社側の視点であり、利用者側に立てば心身の障害を理由に搭乗を拒否される事は障害者差別と捉えるわけです。論点を整理すれば、格安航空はオペレーションの効率化(人員配置含め)で安いチケットを可能にしています。それによって排除される人々(想定されないマイノリティー)は健常者同様にLCC航空の利益を享受したいと思うのは当然で、身体的な事象から選択肢が狭まる事は避けたいでしょう。

この場合、論点は「身障者が健常者同様にLCC航空を利用する事での公共の利益は?」と言う事になります。

 

3、政治プロセスの重要性

憲法にもある、「公共の利益」とは何なのか?「私的な利益に対し、社会全体の利益を表す」(コトバンクより)。
バニラエアーの件を例題として言えば、私企業の為、当然私的な利益を優先した結果であって、はっきり申し上げれば、非常にシンプルな解りやすい結論という事ができるかと思います。勿論、一つ一つの事象に対する決定権は私企業である以上、「法律」の範囲内で決定する事ができます。前記の事象は違法ではないし、私自身バニラエアーを悪者にするつもりもありません、ただ現実、論点は存在し、それに対し排除される人々が現実存在し、その訴えに対し、私自身は耳を傾けるべきであると考えています。

そして「政治」があると考えます。「政治」は、そこに暮らす人々がより豊かになるにはどうするべきか考える、決定していく、プロセスにあるのです。もっと言えば、色々な声に耳を傾け、何が「社会全体の利益/公共の利益」になるのかを議論し、結果を導いていくのであって、まず最初に問題点「論点」があった上で、議論の後、結論が導かれる過程にあるのです。つまり、結論が先にあるはずがないのです。過程を踏まえた結果、結論が導かれるのが政治であって、結論が最初にある事を体現しようとする事は政治ではなく、利益集団(私企業)の経営戦略です。

 

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4、加計学園とバニラエアー

非常に、バニラエアーの件が解りやすい為、例題として引き続き使用させて頂ければ、当該案件が政治プロセスの出発点になり、そして仮に政治が議論の上、「身障者に対するオペレーションコストは航空会社が負担するものとし、体の障害を理由に利用を拒否する事ができない」と結論が導かれたとします。その際は、バニラエアーはそのコストを含めた価格設定をしなければなりません。

一方、話題になっている加計学園問題はどうでしょう。これは、明らかに結論が先にあり、むしろ政治プロセスを使い、結論へ誘導したと言い切ってしまっても構わない事象の一つでしょう。当然、加計学園は「私企業」である為、そのような働きかけをやる事は問題ございませんが、それによって政治プロセスが逆方向のベクトルに力が働く事は、極端な言い方をすれば、加計学園が政治プロセスを利用した、と言い方ができると思います。先日、安倍首相が、今後加計学園以外にも規制を緩和していく等の発言があったと言われておりますが、これも全く筋違いの話で始めに議論するべき事は、獣医師の数と需要の精査が必要で、1学校のみ認可を受けた、それはずるい、と言う話ではないのです。全く論理的思考の欠如と言っても過言ではないでしょう。

 

5、悲しい事実

バニラエアの件を例にあげ、記述してきました。私が言いたかったのは、単純に言えば一部の日本人の論理性の無さです。主体的に、自分の頭の中で論理的に考える事ができない、悲しい事実です。インターネット上の書き込みで、バニラエアの事件に対し、当該者に向かい「チョン」「シナ」だと書き込む方々の、あきれる程の論理性の無さです。仮に、中国の方でも、韓国の方でも、この事象に関しては同じです。身障者の立場に立って考えれば、彼がどこの国籍に属していようが、論点は変わりません。

一方、加計学園の件でも、違法性がないから、国はもっと重大な事象を議論するべきだ。との声もあります。確かにそうでしょう、しかし、本質的な問題は加計学園単体の問題ではなく、政治プロセスに論理性が欠如しており、さらに重要な課題の議論もできないのです。つまり、論点がないままでは、まともな議論の過程もなく、極端な言い方をすれば、権力(政府)が掲げる結論に賛同するのか、賛同しないのか、といきなり問いかけてくるようなものです。これは政治ではなく、中山きんにく君の「やるのか、やらないのか、どっちなんだい? やる〜」と同じです。

 

5、最後に

前述致しましたが、これは現政権が悪いとかといった単純な問題ではないと、私は考えております。これは、参政権を持つ、「日本人の論理的思考性の劣化」であるというのが、私の一つの考え方です。まるで、私企業のバランスシートのごとく国家を捉え、金銭的損得にて政治をやる事が、至極当然な大人の意見として社会全体が捉えている稚拙さにあります。まるで、投資家のような収益、運用益で政治を語りたがり、見えない社会全体の利益(教育、倫理道徳観念による優しさ、差別をしない等の価値観、金銭で換算できない社会全体の利益、超長期的な社会的メリット)をあまりに軽視し、理想論を語る人々を、まるで分かっていないと糾弾してしまう幼児性。

前述したように、政治は私企業の経営戦略ではなく、社会全体の利益を探るプロセスにあると規定すれば、その中で比較対象として、運用益、収益を検討するべきですが、つまりそこが本質的な論点ではないのです。解り易く言えば、「身障者が健常者同様にLCC航空を利用できる環境が、将来的に身障者も活躍できる環境を創出する一助となる」と判断された場合、そのオペレーションコストを日本社会や企業が負担しうる必要経費と捉える事ができるからです。

もっと、言えば「あなた」がいつ、身障者にカテゴリーされるか分からない。これも事実です。現在健常者のあなたが、将来身障者になっても安心して活躍できる社会。

理想論だと笑えば、きっとそんな未来はこないでしょう。それを社会的な利益だと、日本国民が判断できる、そんな日本でありたいと、私は思います。