フィリピン ハゲ ちゃびん日記

フィリピーナと結婚し、1女を設けてしまい。フィリピンに滞在すること事を決意。既に、数年を経過。。。フィリピンから見た日本そして、日本人から見たフィリピン。何が正しく、何が間違いなのか、混沌する世界をさておき、ひたすらに、文化の違いに悪戦苦闘する日々を綴る

自由と平等

 

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右か左か、という分割される議論に、異議を唱えるブログを読んだ。

コメント:左か右か ケンブリッジにて考える

私は個人的にはその通りかと考えます、カテゴライズしたがる方が多すぎるし、今の社会や世界の流れが、その一つのベクトルを行ったり来たりしているのではないと思うので、無意味であると考えるからです。

 

社会主義はなぜ破綻したのか?それは資本主義がなぜ幸福を生み出さないのか?という議論とたどり着く先は同じだと思うからです。これは、私の私見でしかないですが、後述するとたぶん若干の賛同者はいらっしゃるのではないでしょうか?

1、社会主義の破綻の原因
これについては、我々は目前として実感してきたことであり、権力中枢の絶対性が腐敗をもたらし、階層社会の無流動性が人々のモチベーションを減退させる要因になって来た事は事実かと思います。つまり、階層の固定化がもたらす弊害です。勿論、一方で彼らは長期的な経済計画を持ち、大きな国策経済が効率的であると信じていたわけです。

しかし、これは失敗しました。一つは、人間の欲望への無理解です。常に権力より距離のある集団は不満を募らせる、それを国家権力はそれを恐れ、取り締まる訳です。

 

2、資本主義の本質
一方、資本主義は単純に言えば、”お金”に価値を置く社会です。自由な経済競争の中で、ある人はお金持ちに、ある人は貧乏になる、しかしその流動性の中で経済が動き、結果的には社会主義は負け、資本主義が残る形となりました。

しかし、資本主義の本質が見え始めたのは、金融経済が現実の経済より、大きくなっていった頃、だんだん人々は理解していきます。つまり、大きな投資程、リスクが少なく大きく稼げるという「リバレッジ」原理です。つまり収益率(%)が少なくても(つまりリスクが少ない)大きな投資額さえあれば、安定した収益循環が生まれるのです。

実は、やはり資産を持つものが圧倒的に有利であり、第2次大戦後の資本主義当初は流動性があったものの、70年代以降、資本主義の流動性がなくなり、逆に階層が固定化していきます。(ピケティーの指摘です。)

 

3、現在への考察

90年代以降、経済の主流が新自由主義に取って代わり、より自由な経済活動により大きな人間の欲望を満たそうとしましたが、これは経済の数値を大きくする効果あるものの、富むものと貧しいものの格差をより明確にしていきます。逆に言えば、国家が管理していた市場を私企業個人へリリースしていく事で「合理化」という形での恩恵もあったでしょう。いずれにしても、より競争原理の働く世界へと進みます。

一つの潮の流れに変化が起きたのは、「リーマンショック問題」膨らんだ金融市場が破裂するバブルという現象が、実態経済に悪影響与えるほど大きな脅威になったのを実感する一つのきっかけになったような気がします。以前より、バブル経済等は、資本主義の中で起こっているのですが、世界がこれだけ距離感が近くなり、一つの自称が世界全体に一瞬に影響を与えうる事、金融市場の大きさを実感したのではないでしょうか。

そして、今、グローバリズム新自由主義に対する、庶民の不満として「世界的な右傾化」というアンチの動きがでています。共通するのは民族主義的価値観と他民族排他的な世界観。これは、移民の多いヨーロッパやアメリカ社会では当然の流れかもしれませんが、圧倒的に移民の受け入れが少ない、日本でも移民排斥というかたちではなく、隣国批判「嫌韓」「反中」という形で現れているのではと考えます。

 

4、何が良い世界なのか

まず、最初に言いたいのは、正解がないという事です。つまり、絶対的な正義はないと思うのです。これについては、キリスト教的な世界観とは対立します。但し、私の考え方の原点はここから出発します。

「階層化」は安定を持たせますが、流動性を失わせます。常に流動的である事が必要ですが、流動的になるには川上〜川下へ流れる距離感、つまり「階層」が必要になってくるので、「自由」「平等」は相反する概念であり、片方が立てば、一方が立たなくなるという矛盾した原理になります。

つまり、”あなたの自由を許せば、私の平等性が失う”というジレンマです。そこに一定の線引きを与えるのが、法律、政治になります。右か左かの、思想論ではなく、平等性と自由性の間で揺れ動いているのが、政治だと解釈しています。そこに、違うベクトルの思想論が入り込む事で、非常に現実を見えずらくしていると、左右分割者に対して考える訳です。

人によっては、平等性を標榜するのが左で、規制をし平等性を担保する、また右は自由性を重んじ規制を緩和し、より自由は経済活動を担保する。と言うかもしれませんが、現在の政権はどうでしょう?共謀罪については、明らかな規制法律です。しかし、TPPに関しては、賛同しております。しかし、移民政策に関しては消極的です。放送媒体には強く干渉しようとします。つまり、今の安倍政権に関しても、完全に右という事は言えません。また、保守とリベラルという言葉もありますが、これについても非常に曖昧です。今の政権が良い悪いの判断の前に、まず右か左かは、まるでファッションの流行のような見え方でしかなく、思想の背骨のようなものではないのでは?と考えるのです。むしろ思想の背骨は平等性が求められているのか?もしくは、自由な権利主張がされているのか、これが政治家として拾うべき声(世論)かと思います。

そして、今現在の世の中に対して、私の見方は、「平等性の欠落による劣等感からくる、他者排斥への動きが、結果として右傾化したオピニオンリーダーに拾われて一つの流行現象」を起こしているという見方です。これに対する、政治のあり方は行き過ぎた自由性を平等性へ揺り戻す。事だと考えます。

自己責任論を展開するのではなく、弱者に寄り添い、下からボトムアップする政策が必要ではないかと思います。他国に対しても、権利主張するのみではなく相手側の状況を知ろうとする姿勢、理解を示そうとする姿勢が必要だと思うのです。

確かに、外交などは甘い世界ではない、とおっしゃる方がいるかもしれません。私は、世界は我々が作り出していると考えます。つまり、陰謀論にあるような世界の支配者がどこかにいるとは考えておりません。仮に、そういう方がいらっしゃるのであれば、我々ではどうにかなる問題ではないかもしれません。

一歩一歩、世界的なルールを構築して、そこには1国の利害ではなく、各国の平等性と各国の自由性をどこまで、話し合えるかというのは、他人を思い合える、他国を慮れる、共通の美徳(価値観)を共有する事は可能かと考えるからです。

そいう意味では、今の右傾化の流行はアンチ現状に対する受け皿となってしまっている事への不安を感じざる得ません。