フィリピン ハゲ ちゃびん日記

フィリピーナと結婚し、1女を設けてしまい。フィリピンに滞在すること事を決意。既に、数年を経過。。。フィリピンから見た日本そして、日本人から見たフィリピン。何が正しく、何が間違いなのか、混沌する世界をさておき、ひたすらに、文化の違いに悪戦苦闘する日々を綴る

外から見る、日本の政治事情

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国会で共謀罪が成立したようだ。フィリピンにいると何のトピックにもならない、むしろ彼らにはISILの動きの方が重要だ。

私は、日本人の為、こんなニュースにも、ただ触れているだけだ。結論からいうと、悲しい。母国を憐れむ意味で悲しいのだ。

日本だけではない、各国が政治不信になり、選択肢がないと嘆いている。人々は消去法で選択した気になり、嘘か本当か分からないニュースに一喜一憂する。外にいると感じる事の一つに、「何か世界的なトレンドはある」のである、これは誰かが決めているのではなく、人々が起こす”波”のようなもので、伝播するように広がり、大きなムーブメントとなる、まるで経済のバブルの周波数のように、寄せては引いて繰り返す。

ブッシュJrが大統領になり、イラク戦争が始まった。結果的に、根拠、大義名分が不確かまま、始まり、当初の其れは嘘であった。それからではなかろうか、”権威”に対する信頼は失われ、9.11をニューヨークは経験するのである。
その後、愛国法が制定され現在の対テロ戦争へと火種は大きくなっていった。アメリカのみならず、テロは拡大していき、ヨーロッパ、今やアジアでも起きている。結果として、対テロの戦いはテロリズムを大きくした。その後、日本でも対テロ対策として「共謀罪」が成立したのだ。

”権威”が失墜し、信頼し得るものがなくなると、人は不信感を募らすのだろうか?1強支配がなくなると、互いの不信が生まれるのか?それとも個の承認欲求の拡大?社会心理学としては面白いテーマかもしれないが、現代を生きる自分としては、世界の今のムーブメントには非常な危険を感じる。

 

全てが人々の理想とは逆に流れている。本当は戦争など、ない方が良いのに、必要悪な自己保身(軍隊)力は必要だと言える方が、現実的な意見として映る。それは、世界各国の不信感にある。互いに、信頼し合える物差しがなくなったのであろう。それと同様の波が、日本社会へも伝播し、監視される事が生活の安全の為に、必要と考えたのであろう。

話し合い、全てにおいて共通の価値観と物差しが本来必要である、その土台に乗って条約や交渉が必要になってくる、その、あるようで無いような国際ルールというものが、アメリカに恣意的に利用され、その策を後追いするように、あらゆる法律を恣意的解釈する事が日本では現政権下で一般化してしまった。法律の前に真摯である事を忘れてしまっては、民主主義は成り立たない。

「私は、安部さんに反対だったと。」それは言っても、もう遅い。既に、そちらに流れた、そして、「これは私を含め日本国民の責任である。」だから、悲しい。

世界が利己的になり、互いの不信感を煽り、断絶していく様が痛々しい。それは、日本社会にも明らかに浸透していっている。

 

 

 

 

 

自由と平等

 

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右か左か、という分割される議論に、異議を唱えるブログを読んだ。

コメント:左か右か ケンブリッジにて考える

私は個人的にはその通りかと考えます、カテゴライズしたがる方が多すぎるし、今の社会や世界の流れが、その一つのベクトルを行ったり来たりしているのではないと思うので、無意味であると考えるからです。

 

社会主義はなぜ破綻したのか?それは資本主義がなぜ幸福を生み出さないのか?という議論とたどり着く先は同じだと思うからです。これは、私の私見でしかないですが、後述するとたぶん若干の賛同者はいらっしゃるのではないでしょうか?

1、社会主義の破綻の原因
これについては、我々は目前として実感してきたことであり、権力中枢の絶対性が腐敗をもたらし、階層社会の無流動性が人々のモチベーションを減退させる要因になって来た事は事実かと思います。つまり、階層の固定化がもたらす弊害です。勿論、一方で彼らは長期的な経済計画を持ち、大きな国策経済が効率的であると信じていたわけです。

しかし、これは失敗しました。一つは、人間の欲望への無理解です。常に権力より距離のある集団は不満を募らせる、それを国家権力はそれを恐れ、取り締まる訳です。

 

2、資本主義の本質
一方、資本主義は単純に言えば、”お金”に価値を置く社会です。自由な経済競争の中で、ある人はお金持ちに、ある人は貧乏になる、しかしその流動性の中で経済が動き、結果的には社会主義は負け、資本主義が残る形となりました。

しかし、資本主義の本質が見え始めたのは、金融経済が現実の経済より、大きくなっていった頃、だんだん人々は理解していきます。つまり、大きな投資程、リスクが少なく大きく稼げるという「リバレッジ」原理です。つまり収益率(%)が少なくても(つまりリスクが少ない)大きな投資額さえあれば、安定した収益循環が生まれるのです。

実は、やはり資産を持つものが圧倒的に有利であり、第2次大戦後の資本主義当初は流動性があったものの、70年代以降、資本主義の流動性がなくなり、逆に階層が固定化していきます。(ピケティーの指摘です。)

 

3、現在への考察

90年代以降、経済の主流が新自由主義に取って代わり、より自由な経済活動により大きな人間の欲望を満たそうとしましたが、これは経済の数値を大きくする効果あるものの、富むものと貧しいものの格差をより明確にしていきます。逆に言えば、国家が管理していた市場を私企業個人へリリースしていく事で「合理化」という形での恩恵もあったでしょう。いずれにしても、より競争原理の働く世界へと進みます。

一つの潮の流れに変化が起きたのは、「リーマンショック問題」膨らんだ金融市場が破裂するバブルという現象が、実態経済に悪影響与えるほど大きな脅威になったのを実感する一つのきっかけになったような気がします。以前より、バブル経済等は、資本主義の中で起こっているのですが、世界がこれだけ距離感が近くなり、一つの自称が世界全体に一瞬に影響を与えうる事、金融市場の大きさを実感したのではないでしょうか。

そして、今、グローバリズム新自由主義に対する、庶民の不満として「世界的な右傾化」というアンチの動きがでています。共通するのは民族主義的価値観と他民族排他的な世界観。これは、移民の多いヨーロッパやアメリカ社会では当然の流れかもしれませんが、圧倒的に移民の受け入れが少ない、日本でも移民排斥というかたちではなく、隣国批判「嫌韓」「反中」という形で現れているのではと考えます。

 

4、何が良い世界なのか

まず、最初に言いたいのは、正解がないという事です。つまり、絶対的な正義はないと思うのです。これについては、キリスト教的な世界観とは対立します。但し、私の考え方の原点はここから出発します。

「階層化」は安定を持たせますが、流動性を失わせます。常に流動的である事が必要ですが、流動的になるには川上〜川下へ流れる距離感、つまり「階層」が必要になってくるので、「自由」「平等」は相反する概念であり、片方が立てば、一方が立たなくなるという矛盾した原理になります。

つまり、”あなたの自由を許せば、私の平等性が失う”というジレンマです。そこに一定の線引きを与えるのが、法律、政治になります。右か左かの、思想論ではなく、平等性と自由性の間で揺れ動いているのが、政治だと解釈しています。そこに、違うベクトルの思想論が入り込む事で、非常に現実を見えずらくしていると、左右分割者に対して考える訳です。

人によっては、平等性を標榜するのが左で、規制をし平等性を担保する、また右は自由性を重んじ規制を緩和し、より自由は経済活動を担保する。と言うかもしれませんが、現在の政権はどうでしょう?共謀罪については、明らかな規制法律です。しかし、TPPに関しては、賛同しております。しかし、移民政策に関しては消極的です。放送媒体には強く干渉しようとします。つまり、今の安倍政権に関しても、完全に右という事は言えません。また、保守とリベラルという言葉もありますが、これについても非常に曖昧です。今の政権が良い悪いの判断の前に、まず右か左かは、まるでファッションの流行のような見え方でしかなく、思想の背骨のようなものではないのでは?と考えるのです。むしろ思想の背骨は平等性が求められているのか?もしくは、自由な権利主張がされているのか、これが政治家として拾うべき声(世論)かと思います。

そして、今現在の世の中に対して、私の見方は、「平等性の欠落による劣等感からくる、他者排斥への動きが、結果として右傾化したオピニオンリーダーに拾われて一つの流行現象」を起こしているという見方です。これに対する、政治のあり方は行き過ぎた自由性を平等性へ揺り戻す。事だと考えます。

自己責任論を展開するのではなく、弱者に寄り添い、下からボトムアップする政策が必要ではないかと思います。他国に対しても、権利主張するのみではなく相手側の状況を知ろうとする姿勢、理解を示そうとする姿勢が必要だと思うのです。

確かに、外交などは甘い世界ではない、とおっしゃる方がいるかもしれません。私は、世界は我々が作り出していると考えます。つまり、陰謀論にあるような世界の支配者がどこかにいるとは考えておりません。仮に、そういう方がいらっしゃるのであれば、我々ではどうにかなる問題ではないかもしれません。

一歩一歩、世界的なルールを構築して、そこには1国の利害ではなく、各国の平等性と各国の自由性をどこまで、話し合えるかというのは、他人を思い合える、他国を慮れる、共通の美徳(価値観)を共有する事は可能かと考えるからです。

そいう意味では、今の右傾化の流行はアンチ現状に対する受け皿となってしまっている事への不安を感じざる得ません。

 

 

フィリピンの内戦状況についての現地よりご報告

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フィリピンの治安について、ご心配されている方もいらっしゃると思い、書きます。まず、ミンダナオの戒厳令についてでございますが、私直接現地に行って確認しておりますので、ニュースよりもある程度細かな詳細が伝えられるかと思います。

 

1、ミンダナオの戒厳令について(概況)

まず、基本情報を知らないと、勘違いする可能性がございますので、ミンダナオの基本情報よりご説明申し上げます。カトリック教徒が多いフィリピンの中で、ミンダナオエリアについてはムスリムも多く住むエリアになり、フィリピンのムスリムの多くがミンダナオの西部に住んでおります、これはイスラム国であるマレーシアに近いのが一因でございますが、歴史的に実はフィリピンはスペイン占領前までは、イスラム系諸国が多く統治してきた歴史があるのです、厳密に言えばスペインがカトリックを持ち込み、今では80%以上が敬虔なカトリック教徒の国に結果的になった経緯がございます。

その為、ミンダナオ西部の一部エリアではムスリムが自治を行っているところもあり、自治エリアでなくても、ラナオ市の市長はムスリムであったりと、カトリック教徒とムスリム教徒が共存している場所も数多くあります。今回、私はラナオ市に訪問いたしましたが、今回戒厳令になった原因のマラウェイ市の隣市になります。

フィリピンではモロイスラム戦線というイスラム組織が独立運動を歴史的に長くやっていた経緯がございますが、今回の原因のマウテグループ(アブサヤグループの一派、ISIS支持を標榜)とは全く別の組織で、歴史的に続いてきた(現在、自治を認められ政府と休戦中)、フィリピン国内のイスラム独立運動のながれとは全く関係なく、現在フィリピン政府とモロイスラム戦線はむしろ、共同歩調をとっております。(ここが複雑です。)

つまり、今回については多くのムスリムも非難しており、必ずしも宗教対立ではないこと。また、外国人の傭兵部隊も確認されているとのニュースがフィリピンでは流れています。つまり、確かにミンダナオでは歴史的にイスラム独立運動が続いてきた経緯がありますが、今回についてはその流れにあるものではない事を抑えて頂きたいです。

 

2、ミンダナオの戒厳令について(実態)

今回マラウェイ市より、イリガン市迄のエリアにフィリピン軍が囲い込み、マラウェイ市内で彼らがテロ活動を行っている状況になっております。現在、フィリピン軍の囲い込みが、成立しており、隣町ラナオ市においては主要道路のチェックポイントは数多くありましたが、平穏な状況でした。それでも、人達の話題は勿論、このマウテグループの動向が一番大きなトピックです。
実は、私の奥様はこのラナオ市出身でこちらに実家があり、私の娘も現在奥さんとラナオ市に滞在しており、その為、今回心配で訪問しました。(私は出稼ぎですね。。。)また、奥さんの父親ムスリムエリア出身で、ムスリム系の民族:マラナオ族のエリアで育っております。(現在はカトリックですが、親族にはムスリムも多いのです。また、マラナオ族は言葉も違いますが、奥さんもお父さんも、マラナオ語(アラビックに近い)が話せます。

つまり、戒厳令はミンダナオ全土へ2ヶ月間施行されておりますが、実態としてはイリガン市〜マラウェイ市のエリアに軍が包囲し、現在殲滅を狙っているという状況です。

 

3、ミンダナオの戒厳令について

まずは、必要以上に恐れない事が大切だと考えます。勿論、用心に越した事はないですが、国内内戦というニュースが流れておりますが、これは以前あったような、イスラム独立運動の一貫ではなく、内戦というレベルではない事。「内戦」という言葉に、以前よりある「イスラム系組織」と「フィリピン政府」という大きな対立ではなく、多くのムスリムも非難している事を抑えて頂きたいのです、少し日本のニュースの報道には違和感を覚えます。

マラウェイ市はムスリム自治区に近く、ムスリムエリア近くにISISの旗を立てて、一般ムスリム市民を殺害し、ムスリム独立を叫び、外国人傭兵が入り込むテロリストに対して非常に違和感を感じます。

 

4、私見

今回の事件は、ドテルテ大統領のロシア訪問時におこりました。ロシア訪問時に、彼がコミットした事は、今後武器援助をアメリカからではなく、ロシアから協力支援を仰ぎたいという事です。その後、この事件が発生しております。

人の命を何とも思わない、このテロリズムムスリムカトリックもご近所さんとして暮らしてきた、この界隈での出来事。この攻撃を支持するムスリムもいない、この事件においてムスリムが何の利益も得られない、これについても、非常な違和感を感じます。私が何かできる事は少ないかもしれませんが、是非、皆さんにお知らせしたいのは、果たして、彼らはの目的はムスリム国家の樹立なのでしょうか?フィリピンに問題を生じさせるのみ、実際の何の罪もない、ムスリム市民が一番の被害者である事以外何の結果が生み出せるのでしょうか?

しっかり我々が思考し、間違えの無い、論理的な判断をし、色々な人を誤った判断で隔絶していくのを食い止めたい、それが思いです。

フィリピンの歴史から眺める日本2

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日本的な価値観とは?一体何なのだろう?

これが、自分の人生のテーマになるとは思ってはいなかったが、現在、海外に暮らし始めると、否応なく、日々問いが現れる。

 

これは、本当に難しい。本当に些細で、日々見逃してしまう小さな事象に物事の本質が隠れている。大きなマクロの事象が、小さなミクロの世界に現れる。

 

例えば、フィリピンでは誰も時間を守らない。時間を守るという事が、価値としてそれほど高くない、簡単に言えば、みんな遅れるから遅れても良いのだ。これを掘り下げると、どういう事か、、

日本でもフィリピンでも、価値として時間は大切であるが、何よりも日本人は自分が言った事に少なからず、責任を持とうとする価値もある。人は自己と他者があり、自分が遅れれば他者に迷惑がかかるという意識が働く、”恥”の概念である。

こういった道徳的概念が、国によっては宗教で治められたり、文化、風習等に伝統的に受け継がれている。こういう、不確かであるが、確かに感じる民族性が日本の場合、フィリピンよりも圧倒的に均質的で安定的である。

 

道徳的概念が均質的で安定的な理由としては、フィリピンの国内を見ると明らかにわかる。各諸島(エリア)において様々な言語が存在し、通じ合えない。だからこそ、公用語が英語になる。貧富の差が圧倒的に違うので、当然金額に対する価値観は様々になる。結果、彼らが共通の価値観として捉えるのは”教会”、宗教になる。

日本は、どうだろう。貧富の差が広がったとしても、路上に寝て、今日食べる物を探す日々の人はフィリピンに比べれば少数、金持ちの寡占化はフィリピン程ではなく、まだまだ貧富の差は少ない。言語は方言はあるが、日本国内においては日本語が公用語で通じるし、方言でも理解し合える。宗教に関しては、様々あるがそれによって他者を非難する事は、どこか道徳的には良くないと考えている。

 

こんな事は個人差もあるだろうと言われれば、その通りとしか言えない。しかし、やはり傾向としては上記の内容にそれ程、異論のある方は少ない一般論。一般感覚として至極普通と感じて頂けるのではないか?(普通というのが、また難しいが。)

 

また、難しいのは、この”日本人としての価値感”もきっと、時代や情勢によって変化していくのだろうという事も考えられる点である。日本人としての共通の価値観が確かにある、と断言しておきながら、それが時代や情勢によっても変化しうると論じるのだから、これはまるで雲を掴むような話になってしまう。

 

日本だけでなく、世界的にも右旋回をしている世界情勢は、明らかに価値観の変化を起こしている。これは、目に見えるような破壊的なテロリズムではないが、まるで侵食するように、感染するように、広がっていく。今の安倍政権も、世界的な流れの1ページという捉え方も出来るのではと、個人的には考えている。

 

グローバリゼーションとは何なのか?

輸送、交通の発達により、各国は時間的にも近くなった。物や人の移動は、より便利になったと同時にそれぞれの国の制度も合わせる必要が出てくる。情報はインターネットの普及で世界の情報が一瞬で駆け巡り、各個人が端末を持っている。受信のみならず、各個人が簡単に情報発信できる。

国家の壁は低くなり、多様な民族、人種が往来を繰り返す。

国家という枠組み自体が、必要な装置として機能するよりも、利権団体として側面が強くなっていく。なぜ、国家が必要になるのか?最終的にはここに行き着く。

 

 

勘違いしないで頂きたいのは、世紀末論のように悲観視している訳ではなく、時代の一つの転換点にいる面白さ、ある意味未来に対する期待もあり、むしろ楽観的です。 

その通過点として今があり、さらに今の転換点は非常に興味深いという事であり、私自身、人類はやはり進化していると考えているからです。

いずれにせよ、国家というものが巨大な暴力装置から、福祉国家、と求められる役割が変化し、また国家形態においても、社会主義体制より、資本主義体制の方が生産性が高く、結果的に残った。”役割と合理性”ここに新しい物差し(新たな価値観)が必要になっているのでは、というのが私の考え方である。つまり、国家を運営する上で、我々が認識するさらに奥側にもう一つの認識するべき価値観の物差しが必要になっている時代ではないかと考えている。

この変化が今の右旋回に起因するのではと考える。グローバルな動きの中で、合理性は一つの大きな物差しだった、公共よりも個人が注目された、一方で共同体や仲間意識は希薄化した。個人というものの拠り所、帰属欲求を満たす存在を探しているのではないか?人はそれが必要なのではないか。人はそれを国家や民族に、求めようとしているのではなかろうかという仮説である。

私が、フィリピンに住んでいても私は日本人である。但し、自分の娘に関して言えば、フィリピン人と答えるかもしれない。Identityである。自分達のIdentityを民衆が国家に求めたという事ではないのだろうか?共同体への帰属欲求を満たすものの、Identityは時には差別を誘引する。

森友学園の本質的な問題も、ここに至る。グローバリゼーションとは多様化である、多様化の中の規律である、この部分の規律が利権になる。政府はそれを戦前回帰運動に日本的価値を見出したのだ。トランプ大統領が大きな支持を受けたのも、差別的な発言を受け入れるアメリカ人は、自分達の帰属欲求に飢えていたのだ。

 

だらだらと考えてしまったが、まとめると、今起こっている世界的情勢の変化が、大きな価値観の変化を余儀なくしている、または価値観の変化が世界情勢に影響を与えている。いずれにせよ、この転換点に我々は、人としての価値感のあるべき姿、創造すべき姿、をまだ知らない。ここに今苦悶している人間の姿があるのではないか。

つまり、安易に昔話を持ち出し、”昔は良かった””昔の日本人は強かった”という郷愁に浸っても何も解決にならない、ましてや戦前回帰を謳い、そこに日本の未来を見るというのは愚かでしかない。我々は今、次世代の価値観を創造する事を迫られている。

フィリピンの歴史から眺める日本1

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フィリピンは敬虔な、カトリック信者が80%もいる、比較的原理的なキリスト教国家です。これは、スペインの植民地統治からの流れです。

でも、意外に知らない人が多いのは、スペイン占領前は元々はイスラム教徒が多く住む、イスラム共同体の要素が強いエリアでした。(マレーからの住民)

つまり、その頃よりモロ族のモロ・イスラム戦線は植民地支配と戦いを行っており、既に300年以上戦っているという単純計算が成り立つ。(1521年マゼラン上陸)

 

スペイン占領時代には、イスラム勢力がフィリピンエリアにおいて、大きな主要勢力であったにもかかわらず、現状はカトリック信者が80%を越す、敬虔なカトリック国となっている。

 

外圧からの文化や価値観を強要されることは、その後の未来に大きな影響を受ける。例えば、日本の行った韓国併合は、未だなお、日本、韓国に遺恨を残す形になっているし、韓国という国の設立意義にまで昇華してしまっている。

しかし、フィリピンにおいては、これだけの文化、価値観の強要、外国からの収奪があったにもかかわらず、外圧に習う形で現在ではカトリックが80%であり、アメリカ植民地支配の影響より、公用語は英語で、公的な文書は英文化されている。

これは、やはりスペイン統治前にはフィリピンの歴史と呼ばれる、一つの個体としての概念が弱く、フィリピンの歴史はスペイン統治より始まった為と考える。

 

つまり、元々、数々の王国(マギンダナオ王国やスールー王国、マニラ王国)が中世では都市国家のように、ある緩い共同体であったのが、スペイン占領によって一気に国家という形に改変された為、初めてフィリピン国という概念が創造されたのである。

 

ここに、日本との大きな違いを感じる。日本でも数多くの渡来人と呼ばれる人々が日本の文化に新たな、創造を加え発展してきたが、地域差はあっても何か共通の価値観で日本は括られている感じがする。つまり、強制的に外圧による変化を生じさせられた、というよりは自ら進んで、”外国の物”を積極的に取り組む姿勢が圧倒的に強く感じる。

日本が主体になり、外国文化を取り入れるには、主体となる日本に確かな共通の価値観が必要になるのである。それとは一体何なのか?

 

日本という価値観とは何なのだろう?

ここに、昨今の戦前回帰運動や、政治の右旋回の原因があるような気がしてならない、つまり日本人が忘れてしまった、”日本人としての価値観”を戦前の皇国史観に求めている気がするのだ。

本当はもっとずっと深い気がするのだが。

 

サラリーマンをやめる理由

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日本って凄いね。みんな時間を守るし、将来のため、少なからずも貯金するのは普通。それぞれ、個々の人たちがみんなしっかりしている。

 

だからこそ、外国人は日本人を信用する。

日本のパスポートの信頼性は世界一。

 

でも。。。

だからこそ、疲れちゃう。日本でサラリーマンしていた時は、「明日やろうは馬鹿野郎」「今、やらなければ、明日競合他社がやるだろう」「お客様を待たせるわけにいかない」「顧客の思いを汲み取れ」「感じろ、言われる前に動け」。。。

 

営業マンの啓蒙本を読みあさり、より効率的な時間の使い方を模索する。

みんな真面目です。だから、疲れちゃう。

 

私がサラリーマンを辞めたきっかけ。

 

ある先輩の一言、「結局、自分が居心地良いところが一番良いよ。」

この一言でした、フッと肩から力が抜け、「そうだよな」と腑に落ちた瞬間でした。結局は良くも悪くも、日本人は外からの目を意識する、それがサービス産業にとっては他国では類まれな高サービス社会を生んだ「お客様目線」や「顧客満足度調査」。

時間通りに動く交通機関も、顧客の痒い所に手が届くスペシャルサービスも、結局は日本人の勤勉さの土台無しには語れない。

 

それは全て、他人の目を意識する事で生まれる、日本独特の「村八分への恐怖」「普通ではなくなる事への恐怖」「長いものに巻かれる安心感」

だからこそ、みんな同じ物差しで測ろうとする、誰かと比べる。年齢別の平均年収を見て一喜一憂する。

みんながみんな、そんな感じだから、人によっては辛くなってしまう。疲れてしまう。たまたま、「今」の時代に合っている人には良いかもしれないが、当然100人いれば100通りの人生観、価値観があって良いと思う、だから、合ってなくても良いのである。

 

そんな時、私からのアドバイスは「道から外れてしまえばい良い」である。他人が何と言おうと、親や親戚が何と言おうと、自分の居心地の良い所へ逃げ込んでしまいなさい。苦しむ必要などないし、つらい事を続ける必要などない。

たった一度の人生なんだから、少しくらい努力を、というなら、私は「たった一度の人生なのだから、好きなように生きた方が良いよ」とアドバイスする。

 

私も同僚から言わせれば、逃げたのだろう。

しかし、何にも後悔はないし、今の方が良いと思っている。

ただ、勇気を持って好きな事をやり続ける事だ。注意点は他人に迷惑をかけない。

ただ、その一点である。

 

 

 

フィリピン料理

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(写真はフィリピン名物、豚の丸焼き「レチョン」)

正直言って、フィリピン料理は甘くて、塩っぱい。

美味しいフィリピン料理は無い事はないが、出会うのは非常に難しい。特に、日本人にとっては味が濃すぎると、個人的には思います。

 

しかしながら、ご飯を食べない訳にはいかないので、食べます。

いつも、日本食レストランに行けるほどリッチでもないので、会社の食堂で済ませる事がほとんど、私の会社は教育事業関係で宿泊施設も完備している専門学校としての機能もあります。その為、食堂も併設されております。

 

日本のお子様、やはり口に合わなかったようで、「不味くて、食べられなーい。」可哀想に。。。当社の食堂はお客様には無料での提供の為、決して美味ではないですが、まあ、まあ、それなりに食べられると、個人的に思っていましたが。。。すみません。

 

心配にもなったので、近くの日本レストランをご案内させて頂こうと、説明していると。「いくらぐらいですかね?」私は「一人1,000Phpくらいでしょうか。約2,500円程度ですね。」と返答。

 

「高いですね。もう少し安くて美味しいとこ知らないですかね?」

 

ここからは、愚痴になりますが。。。

フィリピンでは安くて美味しいものはありません、高くて美味しいものはありますが、安いものは全てマズイのです。確かに、日本は吉野家もラーメン屋も定食屋も立ち食いそば屋も、どれも安くて美味しく。フィリピンの高い日本食レストランよりも全てにおいて、クオリティーが高い。凄いことです。

こちらの日本食レストランは高級レストランの部類に入るので、どうしても若干高め。日本の定食屋みたいなのはありません。

 

その意味では日本は食文化世界一(私は日本人なので、かなり贔屓目ですが。)だと思います。しかし、日本の常識を諸外国に持ち込んで、ご立腹されても私は困ってしまいます。

 

「こんなもの、毎日、子供に食べさせるのですか?」

「栄養のバランスも考えられていると思えません。味は濃いし。。。」

確かに、栄養のバランスやカロリー計算などは、皆無。お子様方にとって、健康に良くないかもしれないです。それこそ、そのようなオーガニックレストランもあるのですが、それは高いし。。。私も返答に窮してしまいました。

 

そんな中、うちの「奥さん」と娘が食堂で、山盛りよそって、「むしゃむしゃ」娘は手づかみで「むしゃむしゃ」。「奥さん」が手づかみを叱っていますが、一向に辞めません。口の周りにフィリピン料理まみれにして、笑顔。

 

顧客様、そんな様子を見て笑ってしまいました。

「とりあえず、なるべく子供に食べるように促してみます。どうしても食べないようでしたら、日本食レストランにでも行ってみますわ。」

 

「ありがとう。」娘よ。お父さん助かりました。