フィリピン ハゲ ちゃびん日記

フィリピーナと結婚し、1女を設けてしまい。フィリピンに滞在すること事を決意。既に、数年を経過。。。フィリピンから見た日本そして、日本人から見たフィリピン。何が正しく、何が間違いなのか、混沌する世界をさておき、ひたすらに、文化の違いに悪戦苦闘する日々を綴る

フィリピン独り言2

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フィリピンに住んで4年になる。少し前に、”ラッスンゴレライ”と聞いて慌てふためいた。何の事だがサッパリ分からないのである。その後、必死でYouTubeで勉強したが、それ以降、日本の情勢には毎日チェックするようにしている。

 

主な情報源がネットになるので、若干日本の空気感との温度差があるのでは?それが、最近の不安である。私は、元々、流行りに強くないので、ましてやフィリピンにいれば日本の流行りは「風前の灯火」である。もう、かすかに見える陽炎(かげろう)のように遥か彼方に浮かぶ蜃気楼になってしまう。

合っているのか分からないが、日本の政治は「森友学園問題」が大きな政治トピックになっているのではと推測している。

 

ネットでは右翼が左翼が、と論じている。正直、個人的な意見を言えば、そんな時代は過去であり、色々な意見があって良いでしょう。単純にカテゴライズして、人をこういう人だと当て込める。世の中は、もっと複雑で複合的で、結果は半分偶然に創造される。陰謀論は好きではないし、かと言って、全ての公式報道機関が何のフィルターもかかっていないとは思わない。

かつて、企業に勤めた経験があれば簡単だが、新たな商品ができればマーケティング部門が市場を作ろうとする、広告代理店と一緒になったり、出版物で販促活動したり、イベントを開催したり、流行りは企業に創造される、つまりキッカケは作られる。但し、その後どう動くは誰にも分からない。副産物や副作用が生まれる事もあり、人間は未来を確定できる程、そんなに賢くない。

 

ただ、一番のマーケティング手法とは、行政機関と一緒に、推進していく事が、市場を作る上では最も効果的である。信頼も得られる。商売上での商品の信頼性を訴えかける事は、何よりも大切な事だ。其の為、最終的に企業は、政治と結びつく。それは、思想性ではなく、商売の何処とつながれば、効果的か?という単純な損得勘定である。

寄らば大樹の陰と極に集まってしまった結果、1強状態が創造されたのであろうと想像してしまう。

 

1強状態が続く事で、1強に近づく事が出来なかった勢力、とはより隔絶し、日本の政治は、一見私から見ると非常に硬直化してしまっているように思える。弱者はより無力で抗えず、強い者は強弁を振る事で正当化する。世論は2極化して、歩み寄る事ができなくなってしまった。結果として、極端な教育を推進するグループと政権がより近くなり、大きな旗の元、「こちらが正しい道」と。

 

これが、「日本の伝統だ」と言って、現状がダメという。保守とは元来、現状を大きく変化する事を好まず、現状を維持しながらより良い方向を導き出す。革新とは、現状を憐れみ、大きな変化を目指すものであるはず。日本の保守は革新になり、革新が保守となる。なぜか、日本はあべこべになって、それに誰も気づかない。

 

 

フィリピン独り言1

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実は、私は日本で普通にサラリーマンをしていた。別に、ブラック企業でも何でもない、当たり障りのない普通の企業だ。別に待遇は悪いわけでもなかったが、退社後、現在、フィリピンで慎ましく生活をしている。

 

営業部門で、1部上場の100%子会社。比較的安定していた。成績はそこそこ?で、よく転勤で飛ばされた。その為、地方にいる事が多く、当時付き合っていた彼女とは、入社3年目だったか、4年目だったか、別れてしまった。

既に、バブルは弾け、前年対比を守る事がやっとの中、目標予算は110%〜120%の設定でなければ、認めてくれない。特に、待遇が悪くはなかったが、私個人の意見を言えば辛く、幸せは感じれなかった。それでも、何とか、小さな事業所へ行っても、数字を出す為の努力はした。

 

彼女と別れた後、新しい彼女もできず、夜な夜な接待でのキャバクラ三昧であった。土、日はクライアントさんとゴルフ。気づけば、会社以外の事は全く無くなってしまった。仕事は嫌いではなかったが、酔っ払ってキャバクラから帰り、ネクタイを緩め、シャワーを浴びずに、ベットに突っ伏す。そんな生活の連続だった。

選挙になれば、選挙事務所へ応援、手伝い。建築資材関係の営業だった為、そんな事ばかりであった。朝から晩まで、携帯は鳴り響き、便利さは、何か不自由に感じた。

 

今、逃げるようにフィリピンに来て、幸せに暮らしている。収入は、激減したが、それでも、今の方が幸せだと思っている。

 

フィリピンに訪れた日本人は、フィリピンの全ての質の悪さに、驚きと嘲笑するのは間違いない。サービス産業の質の悪さはピカイチである。彼らは、他人の立場に立って物事を考える事が苦手なのだ。まず、自分が一番。

レジ打ちながら、携帯を眺め、列をなしていても、気にしない。ビニール袋をないのに気づいて、取りに行く、(事前に用意しておきなさい。)。

お客様がどう感じるか?皆、気にしない。強く注意すれば、「仕事や〜めた」といなくなる。給料日が遅れようならクレームの嵐だが、自分の遅刻はどこ吹く風。

 

数字必達と焦る、焦燥感もなければ、ビルから飛び降りてしまった友人のような悩みもない。他人を思いやる気持ちは、忘れないよう心がけているが、自分を大切にする事がまず健康的に生きる事には大切だと、教えられた気がする。

 

そんなフィリピンだからこそ、未だに目の前の道路工事が続く。もう半年。いつ、終わるのだろう。車が入ってこれず、すっかり売上が落ちています。

 

 

ご両親へ、ご挨拶。#5 ( コルトガバメント)

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無言での注ぎあいが続く中、第一声は、お父様の「I'm surprising...」であった。

ドキッとする言葉であった。今まで手塩にかけて育てた娘が、、、、、

「Sorry...」小さく呟いた。

 

体の大きなお父様も、傷ついていたのだ。テーブルに横たわる”コルトガバメント”も既にオブジェのように、私の目には写っていて、怖さはなく、何となく寂しい光景でしかなかった。

 

その後、堰を打ったように、私は説明した、何も心配いらない、と私が守ると、 禿げているが、誠実ではあると、(誠実ではないかもしれないが、正直ではありたいといつも思っています。)

 

知らない間に、2人で1升瓶を開けてしまっていた。既に、ほろ酔いでお互いに何を言っているのか、あまり理解のできないまま、握手をした。でも、確かに何か通じた、と少なくても私は思っている。

翌日は、朝6時にはお父様は起床し、仕事に向かう。ごつい250CCに跨り、巨漢を揺らし出勤する。どこでも、父は強いのだ。そう感じた。そして、自分の「奥さん」のお腹にいる子供へも、何か責任感のようなものを感じた。

 

寛大なお父様の許しを得た、「奥さん」はそれはそれは、晴れ晴れとしたお顔で、どう私のファミリーは?といった調子だった。彼女は知らない、この男同士の無言の応酬と、互いに理解不能な言語での会話、そして理解し合うという顛末を。

最近、思うことは。国籍の差よりも性差の方がずっと深く、中々理解しあえない。でも、男同士でじっくり向き合うと、何か見えてくるものがあるのだ。

 

言葉はツールでしかない。最後は自分自身だな。海外で暮らして、一つまた良い経験をしたようです。

 

 

ご両親へ、ご挨拶#4 (コルトガバメント)

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   夕食を食べ終え、ソファーに座り、バスケットボールの試合(NBA)中継のテレビを観戦し出すお父様。このタイミングで私はお声を掛けさせて頂いた。「Excuse...」

 

セブ空港より持ち込んだ、日本酒「久保田」を持ち、「Its Japanese rice wine. Let's drink together. It's my pasalubong.」( Pasalubong : お土産)とビサヤと英語を駆使し、何とかご機嫌をとろうと、頑張っていた。

 

ゆっくりと私と「奥さん」に近寄ってくる、お父様。逐一、お辞儀は忘れません、ジャパネーススタイル。緊張もマックスに達し、笑顔か泣き顔か分からない、泣笑顔で赤べこハゲのお辞儀攻撃。

「奥さん」のお母さんが笑顔でコップを持ってきてくれて、晴れて乾杯。お父様の第一声は「I'm surprising」悲しそうな顔で私に語った。いきなり、妊娠、、と聞かされれば確かに驚くだろう、私は何も言えずにコップの日本酒を飲み干した。「奥さん」は22歳、私は39歳、お父様の方が歳が近い、エロい中年男性が、のこのこ、と家に来ては、ハゲお辞儀攻撃ではやるせないのは当然だろう。

 

「君は真剣なのか?」「Sure」と返答した後、お父様はおもむろに立ち上がり、奥の部屋に入ったかと思うと、”コルトガバメント”持ってゆっくりと戻って来た。

 

私も、これでも昔は武闘派で鳴らした口だ。少し、酒も入っている私は強気に。「I saw first time. Its looks like heavy.」私は、本物を見たのは初めてだったので、正直に「重そうだね。」と感想を述べた。これは、ジャブである。「私はびびっていないぜ。お父様」という私の肝の座り方、示して差し上げた。

横見ると、「奥さん」はお母様と一緒に、その場を離れていった。何とも、頼りない。ミンダナオでハイウェイ沿いに立って、私を待っていた時は、何と神々しいと思ったが、今、撤回する。お母様と「奥さん」は、(それでは男同士で・・)。みたいな顔して、その場を離れていった。

 

テーブルにはコルトガバメント、ほぼ無言の中年2人が日本酒を飲む。これから、始まる2時間の酒盛りは、私の人生の歴史に残る、壮絶な時間の始まりだった。。。

お父様が「カポっ」とコップを開け、私が続き、そして注ぐ。。。

 

ご両親へ、ご挨拶。#3

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250CCのモトクロスタイプのバイクにまたがった、太ったおじさんが「奥さん」の実家に無言で入ってくる。「奥さん」は「papa」と叫び、フィリピンスタイルのリスペクト(手の甲を額に当てる。)を表し、シスターズ次々に続く。私は、即座にその列に並び、まだかまだかと、私の額にもあなたの手の甲を当てさせてくれ!と言わんばかりの表情を見せつけてみたが、あっさりとシカトされた。

10年近くも日本で営業を頑なにやってきた、生粋の営業サラリーマンである、接待の天才と言われ、嫌味のないヨイショが得意技である。人と仲良くなることだけは自負があったのに、今回は出鼻をくじかれた。

先に夕食を食べてしまっていたので、「お先に頂いております」と英語で言いたくても、出てこない。ビサヤでも当然わからず、「Sorry, I ate first..」と言ってしまった。合っているのか、間違っているのか、たぶん間違っている。伝わったのだろうか?分からないまま、引きつった笑顔で、会津土産の赤べこ並みにお辞儀を重ねた。心の中で叫ぶ「伝わってくれ、ジャパニーズスタイル」必死だった。

 

 

実は、セブで地元のフィリピン人に聞いていた、「フィリピンの田舎に行くと、都市部よりずっと保守的で、場合によっては撃ち殺される危険性もあるよ。」と。。。「結婚前に妊娠は、順番違うし。」そんなの知っている。

セブなど都市部では、既に貞操観念は壊れてしまっているが、元来カトリック色の強い保守的な国で、田舎は未だに結婚までは”バージン”という宗教観が強い。

 

一人、遅めの夕食をお食べになる、約体重100kg程度、身長約180cmの大きな体をしたお父様の背中を眺めていた。横を見ると「奥さん」も物凄い緊張した顔で私の隣に座っていた。ふと、思い出した、、、妊娠が発覚した時、「パパにだけは言えない、物凄い怖いの。。。」と涙していた。私が泣きたかった。

ご両親へ、ご挨拶。#2

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ミンダナオ島のLanao del norte Tubodに到着した時刻は、夕方4時を回っていた。

セブよりもずっと田舎である、ラナオではゆったりした時間が流れていた、家の前ではカラバウ(水牛)が歩き、目の前には田んぼが広がる。「今度、魚取りをしよう。。」密かに心に決めた。(私の実家近くで友人とドジョーを採った事を思い出した。)

 

その時点ではお父様は、まだ仕事中で、家にはお母様と6人姉妹と「奥さん」、あと訳のわから無い縁戚のお子様達。(フィリピンではみんなCusin:従兄弟という。)もの珍しげに私の顔を見ては、走って逃げていた。

ただ、ボーッとしていると、「何だか〜遠くへ来たもんだ〜。」知らずに鼻歌を口ずさんでいた。居心地は悪くなく、どちらかというと現住所のセブよりも居心地の良さを感じた。都市化されていない為、ストリートチルドレンも居ない。家の前にはバナナがなり、パイナップルらしきものもあった。食べるのに困らないだろうし、家の側にある共同の井戸で、みんなその水を無料で飲んでいた。

経済発展とは人を幸せにするのかな。一瞬考えて、自分は15ペソで買ったペットボトルを飲み干した。

 

18時を回り夕食を振舞ってもらった。セブのレストランで食べるフィリピン料理より美味しく感じて、非常に和やかな雰囲気で時間が過ぎていった。

 

1台のバイクの音が近づいてくる。「奥さん」が言う、「パパが帰ってきた!」。。。ついに、この時が来た。一瞬にして、家中の空気が変化する、明らかに緊張し、私の心臓の鼓動が高鳴ってきた。。。「殺されちゃうかも。。。」不安がよぎる。

 

ご両親へ、ご挨拶。#1

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セブ・マクタン空港より、心もとないプロペラのついたジェット機に乗り、ミンダナオ西側に位置するオザミス(Ozamis)へ向かう。セブからだと、1時間程度のフライト、大して遠くは無い。

お客様より、頂いた一見高そうな、日本酒を手土産としてバックに空港で止められながらも「プレゼントだ!」と言い、情に訴え、荷物検査も通してもらい無事オザミスに到着した。

また、そこからが大変だった。トライセクル(客乗り箱の付いた、モーターバイク)に乗り船着場に到着、フィリーチケットを買い、ムカス(Mukas)を目指す。こちらも、乗船時間は1時間程度(待ち時間は1時間)、その後ムカスよりザンボンガハイウェイに出てツボット(Tubod)へ行くジープニーに乗車する。

地名が何から何まで、全然お馴染みではない。若干ビサヤが喋れることが救いだったが、分からなければ帰れ無いな、っとその時思った。。

そして、ジープニーで1時間程度走った後、ハイウェイ沿いに立った、「奥さん」と奥さんシスターズを見つけた。(彼女は先に実家に帰っていた。)

ジープニーに止めて、そして降りる。奥さんのハイウェイ沿いの立ち姿を見た時、こんなにも頼もしく、神々しく「奥さん」を感じた事は今も無い。とにかく、ホッとした。。。